ぽとりと落ちたノスタルジア

最近の日記は数年前の日記を書いている。時々リアルタイム日記を挟みます。

半安息日

昔は、自分が他人に与える影響力から逃げていた。
だって、私ひとりが加わるだけでそこのコミュニティの生態系が変わってしまうんだ。


とにかく普通の人として完成したいと切に願って暮らしていた。
なんて愚かで非現実的な望みだったのだろう・・・。


本来の自分とは異なるものになろうとするのは本当に無駄な労力を使う。
でもそれは仕方ない面もある。
10年以上も前、自分は封印されていると感じていた。
だったらもう普通の人として自由に生きた方がいいだろうと。


と同時に、自分はいつまで
自分の興味ない人達からの観察対象やくだらない嫉妬の対象になっていればいいんだとうんざりもしていた。



だって、1日中仕事してるふりしながら(仕事はあるのにやる気と能力両方ない為そうなる)、
私の事をずっと観察してるだけで給料もらってる人の為に、何か手伝える事なんてなかったんだよ。
こういう人は今後も節目節目で少しずついろんな事を諦めながらずっと同じ様に生きていくので誰もどうにもしてやれない。


私を見て自分の仕事にがっつり取り入れたりしてる人もいたし、生き生きし始める人もいた。
たまに、話した事もない人がやる気になって生き生きして話しかけてくる事もあった。


かつての会社員橘 (誰だ•••あの人•••)

どうぞお好きにー。
生き生きする分には問題ないわな。

でも私はなんとなく気づいている。
こういう人達は一過性の反応を示しているに過ぎない事を。





いっその事、自分の得意な分野に飛び込んで同じ目的を持った人達と学びながら仕事に没頭出来る様な職場にいけばよかったのかもと思っていた。

しかし•••なんとなく昔から、何かを本格的に学べばよくない考えも頭に入ってしまうと感じて気が進まない。
これは、私にそれらを避けながら優良なところだけ取り入れる賢さがないと自覚していたからだ。



そんで結局、人生適当に生きてる人ばっかの環境にばっか身を置く事に。



そうしてある時から世の中の人と接するのが何もかも嫌になったのです。


あまり人に会わない様にしているから以前より比較的快適に過ごしているというだけだ。



本当は、世の中がもう少し違ったらどこに行ってもそれなりにうまく馴染めたはず。
でもそうじゃないから、私の様に普通の人だったとしても考えが違うというだけで、
何一つ話さなくても"異質"な存在として認識される事になる。

本当は自分の方が比較的正常な人間で、
自分以外の多くの人が異常なのだとだいぶ前から気付いていた。
でもそれは世の中では絶対に通らないという事もよく認識していたけど。