最近、世の中のこれからの傾向をさらに深く知って
それと関連しているとは断定出来ないけれど、
ふとうつ病について思い出した事がある。
以前、どこぞのコンサルタントと話していた時、
うつ病についての話題になった。
その時、私の中にはうつ病についての見解がいくつかあって、
その中でこのコンサルタントの考えと一致していると思われるものを
相手が言う前に述べた。
そしたら、やっぱりこの人の考えそのものだったらしく、
このコンサルタント、喜んでしまって話がそこから先に
すすめられない雰囲気になってしまった。
私がむしろこの人に言いたかったのは、
それとは別の方だったんだけど、
最初ので満たされちゃってもう入らないなと思った。
料理を出す順番を間違えてはいけないと
つくづく思う。
最初にデザートを出してしまって、
それがあまりにも相手が食べたいものだったから、
本当に食べさせたいメインの料理を出せなくなってしまった。
このコンサルタントの人、
うつ病になるためには余裕が必要だと言った。
本当に余裕がなかったらうつ病にはなれないと。
私も、これは現実に存在する事実のひとつだとは思う。
これうつ病の人やうつ病になった事がある人が聞いたら
逆上するかもしれない。
でも、問題はうつ病になるかならないかではなくて
もっと本質的な問題を改善出来るか出来ないかなので、
うつ病になったから全くだめというわけでもないし、
うつ病にならなかった人が偉くて正常という事にもならないと思う。
それ踏まえたうえで聞き流していただきたいです。
余裕がないとうつ病は無理、というのは、
お金、時間、住環境、人間関係、等の
うつ病になってもとりあえず
引きこもって生きていけるという
ある程度の条件が揃ってないと、という事だという。
たしかにこれはあると思う。
でも、そこだけに焦点あてて考えたら、
まるでうつ病の人の苦しみが気のせいか何かみたいだ。
うつ病の人の見えている世界と、
普通の人の見えている世界はおそらく全然違うし、
目の前の現象ひとつ、他人の言葉ひとつとっても
おそらく響き方が全然違うのだ。
なんでうつ病になった事もない私がそんな事
察するかというと、うつ病になってもおかしくない状況に
いた事があるからに他ならないです。
うつ病の人と全く同じものが見えていたとは言い難いけど、
察する事なら出来る。
でも、先にも書いた通り、
うつ病にならなかったからそれでいいのかというと
そんな事はないです。
現れた現象がうつ病かそうじゃないかの違いで、
根本的に状況を改善出来ない、そもそも何が問題なのかよくわからない
それが長期で続くというのは、相当の苦しみです。
これはわかる人にしかわからない。
ほとんどの人は考えないから。
もしくは考える事を放棄する。
または考えたい事だけ考えて、あとは放棄する。
考えるという素地のある人は、
自分が動物じゃなくてヒトだという事を強く自覚しているので、
苦しくても考える方を無意識に選ぶ。
それが時に、うつ病というベクトルに向いてしまう人もいるんじゃないかなと思っている。
また、どこぞのコンサルタントは、
うつ病の人は、周囲の関心を引きたがるとも言っていた。
これは、たしかにそういう傾向が強い人もいるけれども・・・。
これは個人差であってうつ病だけの特徴ではないと思うよ?
他の病気であっても、
周囲の人に気遣ってもらって、
病状が相当重くて大変なはずなのに、
目に生き生きとした輝きを密かに宿している人、いたよ。
あと、特に病気とかじゃなくて、健康な人でもわりといる。
ていうか、このコンサルタントのお客さんがそう。
あんたのお客さん、ほとんどそれじゃないかよ!!
全員別にうつじゃないでしょ!!
なるべく、可哀想な自分を売り物にしないほうがいいと思ってしまうけど
どうなんだろうか。これ、度を過ぎるとすごく気持ち悪いと思う。
どうせ関心を引くなら、もっと生産的な事で引けばいいのに。
相手の為にもなって、自分の承認欲求も満たされると思う。
しかし、厳密にいうと、こういう”可哀想な自分”で気を引きたい人たちは
承認欲求とは少し違う理由を持っている事が多い。
そんなに高度なものではない。
ただ単に、”誰からも見向きもされない自分”が耐えられないのだ。
これ、私にはあんまり理解出来ない精神構造なんだけど、
たしかにこういう人達皆に共通して存在していた。
話は戻して、うつ病の人は、考えてるのに考える余裕がない、
そんな状況だ。
私、過去にうつ病にかかって回復した人と話し込んだ事ある。
次はその事について日記書こうと思う。