ぽとりと落ちたノスタルジア

最近の日記は数年前の日記を書いている。時々リアルタイム日記を挟みます。

時間がとまる4

時間がとまった日から1年くらい経った頃かな。



あれは16歳の時。




叔父が、帰省していた。





居間で叔父となんとなく過ごしている時、
1冊の本を取り出して私に見せた。



「ここに書かれてる事はほんとの事なんだからな。」



その本は、聖書だった。



キリスト教



うちには誰もクリスチャンなどいない。
叔父も特にクリスチャンというわけではなさそうだった。


なぜあの時聖書を持っていたのか、
いまだに謎だ。







翌日。



家には誰もいなく
珍しく居間が無人だった。


明るく静まりかえり、
日中なのに空気が澄んでいた。



ふとテーブルを見たら、例の聖書が置いてあった。




"本当の事が書かれた本。"




この本を開いたら、何かが変わってしまう気がする。
でも、どんな本なのか気になる。
どうしよう•••でも•••。



どきどきどき•••。



そっと手に取り、開いてみた。
初めのページには、有名なあの文言。
1行目、2行目、3行目、と読んでいく。




―引き込まれそう―





そう思った。
そこで閉じた。




パタン。



本をテーブルに戻して、
何事もなかったかの様に離れた。






16歳の私はこう思っていた。


私は、こういうのじゃなくて、もっと普通がいいの。
もっとこの世に存在するいろんなものに触れてみたい。
この本の世界に引き込まれてそれだけになってしまいたくない。



頭の中で、必死で言い訳した。


つまり、もう引き込まれている。




ただ、
このファーストコンタクトは何も悟れなかった。



約束の時まで早過ぎた。




再び聖書を開くのは
この時から
実に22年後となる。








私が聖書に興味を示さないのを見て、
叔父はなぜかややイライラしていた。


そしてレンタル屋から
天地創造のビデオを借りてきて、
「見ていいからな。」
とビデオを置いた。



やったーえいがー。




この天地創造、ビデオ上下巻に分かれた長編大作で、
私は当時上巻だけ見た。



ノアが方舟を作っている時に、
主のお告げを信じない人々(骨とか身にまとって異様な容貌)から馬鹿にされているシーン。


方舟の中で8人でひっそりと大雨をやり過ごしている時に、
洪水の音に人々の呻き声が混じっているようなシーン。


大バビロンが崩壊し、
人々が世界中にちりぢりになった時に、
二度と結束して悪い事を企めない様に
様々な言語に分かれた、シーン。

これが一番印象的だったので、
母に教えたら、知ってるって言われた。



数日してビデオは返却され、叔父も休暇が終わって帰ってしまった。









そうして私は聖書の事も何もかも忘れてしまった。
ただ、長期休みに明け方に起きているだけだった。




もしあのまま聖書を読み進めていたら、
時間がとまった事がヨシュア記に書かれていたのに。



今読むとたしかに太陽がとまったと書かれている。




しかしわかる。
聖書を読んだだけでは、
ヨシュア記どころか
私ひとりでは何一つ解き明かす事などできないという事を。




そういったストラクチャーを理解した上で
音声を聴いていくと、
人生のありとあらゆる問題を解き明かす事が出来る様になっていく。



これは、書店やAmazonで売られている一般の書籍を
何100冊読もうと、
何億冊読もうと、
絶対に解き明かせない。
そこには答え風の事は書かれてはあっても
答えなどない。


世の中の本好きが
人生の問題を解決できないのは、
このためだ。


誰かに相談したところで
その人がこれだった場合同じ事となる。









とりあえずヨシュア記と
私が15歳の時に時間がとまった日記に関しては
この音声を聴けば解き明かせる。↓


2022年11月24日(木)の音声。

https://rapt-neo.com/?page_id=57424