過去数年に渡って仕事のことに関する質問をかなり受けてきました。あらゆる人に聞かれるのですが、答えても理解してもらえたためしがありません。または勝手にその人なりに理解したつもりになっていることが多かったです(ひどい)。
その原因の一つに、皆の「辛い・大変」と私の「辛い・大変」が大幅に違っていたということがあります。以前は、「大変なのは皆一緒で、自分だけ辛いとか思うのは違うんだ」と思っていたけれど、そんなことなかったです。身の回りで一番苦労してるのは自分じゃなかったにしても、たいていの人がやりやすく楽で自分のペースで仕事や生活をしていたことはうらやましいものでした。
また、あまりに詳細を話しすぎるのは個人情報保護の観点からも組織という観点からも守秘義務に反します。だから誰に相談してもわかってもらえなかったのです。自分にしかわからないというのも孤独感の原因になります。自分にとって望むものであればそれは自信と優越感になりうるかもしれませんが、望まないものであれば孤独感に苛まれます。
今やっと普通の安定した精神状態で生活出来て、これが世間一般の大半の人がずっと味わっていたものなんだと理解できまし
た。
では、過去の辛かったことやさんざんな目にあったことはどういうことなののか?
母親に、過去の自分の頑張りでさえ否定するようにこぼした時に、あなたの仕事のことはよくわからないけど、せっかく頑張ったことは否定しないほうがよいと言われました。意外でした。何がって、いろいろと。母に言われたことは頭でわかっていても納得できないので放置しておいたんですが・・・。
それからだいぶたって思ったのですが、辛い大変な出来事は自分の病気の原因細胞みたいなものなのです。これに負けると自分も他人に平気で酷いことをしたり、なんでもすぐあきらめて文句ばかりかかえる人間になります。こうならなくてほんとによかったと思っています。また、これ(病気の原因細胞のような出来事)があるが為に自分の何を改善したらいいかが明確になるのです。
自分がやられるほうなら非常に幸いなのだということが過去の出来事から分かります。自分がやる側だった場合、因縁つくりです。いろいろな人を見ていて思うのは、わざわざ自らつくらなくても、ということです。
私が痛い目に合いつつも勝った理由は、なんとなく母な気がします。一見自分の意志や考えを持っていなさそうですが、人に対してやってはいけないことの分別を自分なりにつけてそれを頑なに守る姿勢があります。小さい頃から自然に学びとっていたのかもしれません。
というか橘家皆そういう血筋のような気がしてきました。とりあえずご先祖さまは尊敬。そして悠々自適にいまの仕事を努力するのです。以前ほど大変じゃないにしても、できる努力はするのが私のやり方なのです。以前はあんなに苦痛だったのに、いまは次の日仕事でも苦痛じゃないです。むしろうれしいです。
人生はこの「ギャップ」がおいしいのです。